好調の大河ドラマ「光る君へ」ラブシーンが話題!
先日、知り合いの女性たち(アラフォー独身女性2人)が「光る君へ」のまひろ(紫式部)と道長のラブシーンについて盛り上がっていました。
そのうちの一人は、源氏物語を大学で専攻していたそうで、まあまあ知っている故このドラマは見たくないと話していました。しかしラブシーンの話を同僚にされて、つい再放送を目に留めて見入ってしまったそうです。
私が「道長のバックハグからの立ったままキスするのは、平安時代にはないですよねえ・・・」と感想を述べると、かなりウケました。私は面白く見たつもりですが、実はそういうところを批判的に見てはいけません。「道長さま、かっこいい!まひろがあんなに好きなのね。わたしも誰かに愛されたい!」でいいのです。
つまりドラマなので、すべてリアルである必要はなく、平安時代ではリアルはいろいろ不都合でもあります。なので、違和感が許せない知識人は見ない方が賢明ではあります。
でも、逆に「ここは違うよなー、でもこういうことを表現したいんだね」と思って寛容な目で見ると、まひろが源氏物語のこのシーンを書いたのは、こういう経験があったからだ、と言いたい脚本家の意図が見えます。
また、知識の全くない方でも、ドラマで描かれる倫理観とか、道徳観の現代との違いなどは比較的ノーマルな解釈で描かれていて研究されたドラマ構成だと思うので、参考になると思います。
お別れした道長とまひろ。貴族の女君にとって結婚は幸せ?
平安時代の結婚は、正妻は一緒に住むことができますが、基本女性がお婿さんを頂く形式の「通い婚」。貴族は本当は、ドラマのように男女が顔をまともに合わせることは非常に少なく、相手の女性の顔は知らないのが普通、女君には名前もなく、「藤原の○○のむすめ」などと呼ばれていました。つまり実家の位や財力が優先基準で、正式な結婚で正妻をもらう場合は、男は自分の家の格に合った女君を選ばなければ先の出世がありません。
まひろは下級貴族のむすめで、道長とは格差があるので、道長の将来を思えば正妻には絶対になれないのです。しかも、まひろの部屋でもない廃屋でのラブシーンは結婚する為ではなく親も知らない、秘密の逢瀬で、実際あのようなことができたか疑問ですが、倫理観としては現代の不倫のような感覚というか、うしろめたいことをしているようなものなのです。
まひろは頭が良いので、正妻になれないことは分かっていたと思いますが、「妻になってくれ」という道長に「北の方(正妻)にしてくれるの?」と口に出してしまいました。
それほど道長が好きだったという設定です。それまで、まひろの方が現実的だったのに、ここから急に道長の方が現実を見て、「妾(しょう:正妻以外の妻)にはなれない」というまひろに怒り、諦めます。
まひろの「(道長が心ではまひろが一番だといっても)他の誰かが道長さまの妻になるのは耐えられない」という考え方は、源氏物語の随所に色濃く表れています。
源氏物語の光る君は紫式部の理想の男性像、でも本当は光源氏より女君の生き方がテーマ
今のところ、ドラマはまだまひろが紫式部になる前です。これから道長もまひろも結婚し、宮中で再会するまでが描かれます。すでに源氏物語の内容のルーツがそこここに見受けられますし、他の有名な古典「蜻蛉日記」(藤原道綱母:財前直見さん演じる、藤原兼家の妾)「小右記」(藤原実資:ロバート秋山さん)、漢詩や和歌(赤染衛門など)古典好きにはわくわくの展開です。
見ていると、この時代の貴族の女君の幸せが何処にあったのかということを描きたいのが源氏物語だったのだと、思うようになるでしょう。
まとめ:「光る君へ」は、見えているものより、その奥をよく見よう
「平安時代にあり得ないよね!」という視点で見るのではなく、史実として分かっている文化や出来事のシーンは楽しむ一方、この時代の人は平安の社会の中で、身分の違いや制度に翻弄されたり苦しんでいたこと、でも基本的な感情や恋愛観は好きな人に何人も恋人がいるのはいや!とか現代と違いが無いこと、人間はたとえ時代が1000年経とうとも、心の中は同じであるということを非常に感慨深いものとしてとらえると良いかと存じます。
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