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皇室の今、その1 昭和の皇室はどうだった?

皇室と日本

こんにちは、あまねです。

この春は連日のように、皇女敬宮愛子さまが、会社に行った、参拝した、鑑賞した、園遊会に出たというニュースが出ていました。大谷翔平か愛子様かというくらいです。

天皇家と皇嗣(秋篠宮)家はなぜ対立して書かれるのか

テレビなどのメディアでは、愛子さま始め、天皇家のニュースは好意的に放送されています。

現在の天皇皇后、愛子さまがこのようにほぼ100%アゲアゲで報道されるようになったのは、令和に入ってからです。一方、第2皇位継承者である秋篠宮家に対する批判には、誹謗中傷と呼ばれる類のモノがあふれています。

なぜ、今このようなことになっているのか、昭和時代にさかのぼって考えてみます。

昭和の時代は長く、敗戦後しばらく経ってからの後半の期間は、皇室は安定していた

昭和天皇と良子皇后

昭和天皇は、第2次世界大戦の敗戦で人間宣言をし、国民の象徴となりました。

前の大正時代が短かったため、昭和天皇は若くして即位し、激動の時代を生きることになりましたが、明治天皇も大正天皇にもいた側室を持たず、良子皇后との間のみに皇太子と常陸宮ほかお子様をもうけられました。

天皇としての役割は戦争で大きく変化し、「国民に寄り添う」という具体的意味もまた変化しました。
戦争後は、天皇の戦争責任を問う声はありましたが、GHQが躊躇するほど、日本国民の天皇に対する敬愛は強く、結果的に皇室の本丸は残されました。

そして、昭和天皇は崩御するまでの間、その新しいお役目を見事に果たされました。
民に対してあくまでも平等に思いやりをもって接し、質素に、家族を大事にし、特権を振り回すことはないけれど、威厳がありました。
園遊会や相撲観戦、行啓などではユーモアもまじえたお言葉や、天皇のオーラという感じの何かがあって、自然と敬意をもってしまうのです。

昭和の皇統は決まっていたが、皇太子家には批判もあった

天皇、皇后は表立った批判はされないのが普通です。しかし、昭和の時代から、皇太子に対する批判めいたことは、ニュースレベルでもあったと記憶しています。

主に、皇太子が美智子さまとご結婚されたころからでしょうか。初めての民間人のお妃である美智子さまには、その日ごろのお振舞いやファッション、海外訪問などの重要公務、お子様の教育、夏の長い静養、衣装や設備にかけるお金など、称賛と批判が入り混じっていました。

美智子妃はそれらのストレスでお声が出なくなったり、ご病気になったりということもありました。

美智子さまの最大の強みは、皇位継承者を生んだこと

天皇が「国民の象徴」となってから、皇室は国民の身近な存在であろうとしました。
国の安寧の為に祭祀をして神々に祈り、国に功労のあった人に勲章や名誉を与え、弱き人々のところに出向いて励ます。皇居の庭をお掃除したり、ボランティアをする人たちにお礼のお言葉をかける。

皇后ももちろん天皇の補佐をして、女性ならではの公務で尽くします。

ただ、そうした日々を問題なく努めることは大事ですが、何よりも大きな役割は次代に皇室を継承することです。皇室典範で、男系男子のみが皇位継承権をもつため、何としても皇子を生まねばならず、昭和天皇、は明仁親王(現上皇)が生まれるまで、良子皇后を励まされました。

その点、美智子さまはご結婚後まもなく懐妊され、男の子の徳仁親王(現天皇)が生まれました。
それは皇太子妃の立場を盤石なものにしましたし、美智子さまにとって親王はまさに神の子だったに違いありません。

平成までは天皇家に後継問題はなかった。よって対立の構図もなかったに過ぎない

昭和、そして平成の時代がくるまでは、皇室は基本的に平和でした。
明仁皇太子が天皇になり、徳仁皇太子が結婚適齢期になったころから、皇室はおかしくなっていきます。次回は平成の皇室について…

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