PR
スポンサーリンク

あれっと思った、平安貴族の○○○【光る君へ】

ドラマ

こんにちは、あまねです。

大河ドラマ「光る君へ」のシーンに?

楽しく拝見している「光る君へ」まだ紫式部への道は先ですが、見ていてちょっと疑問に思ったことがあります。

まひろの父、為時が官職を失い、一家の暮らしはまひろが婿を迎えなければ貧乏を極めてしまいます。

そこで、おじの藤原宣孝がお婿さん候補を探します。

まず目を付けたのが、正妻を亡くして間もない藤原実資(ロバート:秋山竜次)でした。

実資が病気だとのことで、早速見舞いの品を届けてまひろを売り込もうとする宣孝。

庭の見舞い受付で、教養が高いことで評判の実資に巻物を持ってきていると、家来に支えられた実資がよろよろと廊下を歩んでいくのが見えました。その苦しそうな様子を見て、「こりゃ長くないかも」と感じた宣孝は、見舞いは置いていきましたが実資を諦めます。

私が疑問だったのは、どうやら「おトイレ」に向かっていた実資の行動です。

実資は記録によるとこの時赤痢を患ったそうで、つまりお腹の調子が大変悪かったのです。

なのであのシーンはトイレに向かっていたと考えるのが妥当で、その前にも布団に横たわっていた実資が、うなりながら助け起こしてもらってどこかに向かうシーンが流れました。

しかし、平安時代に今のような別部屋の「トイレ」があったのか?と思い調べてみました。

平安貴族たちは「マイトイレ」を持っていた

「樋箱(ひばこ)」とよばれる持ち運びトイレ。今でいう「おまる」のようなもので、貴族の女性たちは用を足したくなったらこの樋箱担当の女官を呼びつけます。

姫君の場合、樋洗(ひすまし)や須麻志(すまし)女官とよばれる人々がいて、かけつけると御簾(みす)で周りを取り囲み、主人をその中で用便させました。姫君たちは十二単を着用しており、非すましたちは着物を持ち上げてあげたりするのですから、かなりの重労働だったことでしょう。

樋箱は木でできた箱で、引き出し式になっており、そこに砂や灰を敷いて上から用を足したら取り出して捨てるようになっています。なので用が済んだら樋殿(ひどの)とよばれる場所に運んで引き出しの中身を捨てて、洗いました。ちなみにこの頃から、ふき取り用に紙を使用するようになったといいます。

身分の高い姫の樋箱は当然ただの木の箱ではなく、蒔絵が施してあったりする豪華なもので、砂などを敷いて処理しやすいようになっていたとすると、今でいう猫用トイレのようですね。

では、ドラマの実資の様子は嘘なのかというと、そうでもないようです。

男性貴族は、用を足す場所が決まっていた!?

宮中の役所などでは、男性貴族が用を足す場所が決められていたそうです。

自分の樋箱をそこに置いてあるのか、箱は共用なのかはよく分かりませんが、とにかくそこまで行くというのは、現代と同じです。

役所は個室ではなく人目や匂いなど衛生上の問題がありますし、場所を決めないと不便だからでしょう。

一方、女性の姫君たちは公の場で仕事はしませんし、何より軽々しく人前に姿をさらしません。

比較的身分の低いまひろは、乙丸を連れているとはいえ堂々と外を歩いていますが、そもそも高貴な姫は屋敷を出ません。

なので、おトイレは自室でが当然でしょう。

有吉佐和子の「和宮様御留」という小説によれば、皇女和宮は江戸時代末期に将軍に輿入れして以後も生活習慣は皇女時代と同じで、女官が「おまーるー」と呼ばわっておまるを持ってくる様子が書かれています。このレベルの女性は、江戸の終わりころでも平安時代とほぼ同じということです。

そしてこれは日本だけではなく、フランスのベルサイユ宮殿などにもトイレはなく、ドレスの貴族婦人たちはおまるをドレスのスカートの中にすぽっと入れて用を足していたようです。

しかしなんと平安時代にはもう、「水洗トイレ」もあった!

ただ、屋敷の敷地内に川を引き込むトイレがあったそうです。平安時代の水洗トイレは貴族の屋敷の敷地内に小川などから水を引き込んで水路を作り、そこに足を乗せる2枚の板をおいたり、穴をあけた板をおいてトイレにしたそうです。

屋敷の中ではないので、別棟を立てるような形になり、それがいわゆる「厠(川屋)」の始まりと言われています。下水道や浄化槽の仕組みがないので、結局どの方法でも処理物は川に流す事になります。

小川などが屋敷の近くになければ作れませんし、全てのお屋敷にこのような施設があったか分かりませんが、藤原実資は屋敷内にトイレがあって、そこに向かっていたのかも知れません。

しかし、見舞客の横の廊下を通らなければ行けなかったのでしょうか…お気の毒なシーンでした。

宣孝は実資が死ぬと思ったようですが、(史実なので分かっていたけど)まもなく回復して良かったです。

宣孝が置いて行った見舞いの巻物には、スケスケの衣装をまとったまひろ的姿画がはさんであり、実資は「おおっ、見えておる…」と二度見しています。日記に下らん女との縁談に憤慨したことを書いている場面がありましたが、まんざらでもなかった様子。元気になってよかったよかった。

まとめ:平安時代は水洗トイレの原型があった!

ドラマの藤原実資は、おなかが痛いのにポータブルトイレ(樋箱)は使わず、介助されつつトイレに向かっていたようです。赤痢がうつる病だったからかもしれません。お屋敷に水洗式トイレがあったと思われます。

平安時代からの「トイレの歴史」面白いですね。全く文化が違いお互いを知るすべもないはずなのに、日本や世界の国々でこうした基本的習慣に大差がないところが興味深いです。

コメント